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Thursday, September 12, 2013

MOOCs:教育提供者が多様化するとどうなる?①


前回書いたMOOCsについての記事では、MOOCsの失敗等についても触れましたが、
先日MOOCsについての新しいニュースが入ってきました。こちらです↓



グーグル 大学講義を無料配信

世界的な企業であるGoogleが、有名なMOOCsのプラットフォームの一つであるedXと提携し、誰でもオンラインコースを創れるウェブサイトを立ち上げることになりました。

個人的にはGoogleがMOOCsの動きに大きく参入してくるのは時間の問題かと思っていましたが、やはり大きなニュースとなりました。
これによって、大学に限らず企業、そして個人等誰でもオンラインコースを提供できることになります。

さて、このように教育提供者の多様化がぐぐっと進むことは、どういうことを意味するのでしょうか?今までは大学が提供していた高等教育は将来どうなるのでしょうか?
今回も、私なりに考えたことを2点の側面から記したいと思います。


1. 高等教育が市場にさらされ、淘汰されるとどうなるのかについて

2. ターゲット(学習者)にどうアプローチするのかについて


この記事では1についてのみ述べ、次の記事で2について考察します。


1. 高等教育が市場にさらされ、淘汰されると何が起きるか


高等教育の提供者が大学から個人まで多様になり、それらが皆同じプラットフォーム上で(高等)教育を提供すると、どうなるのでしょうか。

大きな変化が起こるかどうかは、個人的には、「大学」という教育機関としての伝統がどこまでユーザーに魅力的に映るかにかかっていると思っています。
つまり、「大学」というブランド、あるいはハーバード大、東大などのある大学のネームブランドが、企業など多様な提供者のいる中でいつまで「教育を提供する者」として上位に居続けられるかが鍵だと感じています(現在上位にいると仮定)。

前回の記事でも紹介したOERの市場では、「MITの教材だから質が保証されている」というように、ユーザーがOERの質を判断する材料として、特定の大学のブランドが在ると報告されています。

これが崩れれば、面白いことが起こります。

大学等伝統的な教育機関や一般人、及び企業が、平等に近い条件下、かつ同じ土俵の上でユーザーに教育を提供するので、授業のおもしろさ、親しみ易さ、重要性、必要性など様々な要素によって各授業の人気が決まるでしょう。
つまり、大学の教授の授業よりも一般人が行う授業の方がおもしろくて人気が出る、というような現象が考えられます。Khan Academy (カーンアカデミー)のような状態ですね。

しかし、「人気が出るもの=いいもの」とは限らないことはどなたもお分かりでしょう。

そこで、そのような多様化するMOOCsにおける質評価のシステムのようなものが今後必要になってくると思います。
OERにおいては、教材の質を判断できるようなものが現在ほとんど存在しないために活用者がどの教材を選ぶのが適切なのかの判断ができず、教材利用があまり進んでいない状況です。
MOOCsにおいても提供者の多様化が進めば、オンラインコースの質を保証する大きなシステムの要求の声があがるのではないか、と考えています。
おそらく、小さなグループ向けのオンラインコースや沢山の学習者を対象とするオンラインコースなど、様々な種類のものが創られると思いますが、それぞれにおいて一定の質が保たれることが、教育においては特に、大事なのではないでしょうか。


次回の記事では、2点目の考察である
ターゲット(学習者)にどうアプローチするのかについて
を書いてみたいと思います。

Tuesday, August 27, 2013

MOOCsは学びの最終形態ではない???②




MOOCsが全てではない


前回の記事→「MOOCsは学びの最終形態ではない???①」では、以下の二点について整理しました。

①アメリカを中心に、MOOCsの失敗等に関する「ポストMOOCs」の議論がポツポツ出始めていること。
②MOOCsはもともと、Open Educational Resourcesという、教材をオープンにする動きから発展したものだということ。


さてこのようにOERから出てきたMOOCsと捉えた上で本題です。
私は最近のメディア報道やアメリカでの動きを眺めてみて、
MOOCsはメディアで騒がれるように、それのみが次世代の教育になりうるのではなく、
以前からある教育の新しい発展の枝分かれの一つにすぎない、という見方をしてもいいのでは、と感じています。


わかりやすく説明すると、
前回の記事でも紹介した「ポストMOOCs」という呼び方は、いかにも

従来の教育 →(OER)→ MOOCs → ポストMOOCs 

という、アメリカのメディアの過度な取り上げ方による一直線の教育の進化を前提にしている見方であると思うのですが、

本来は

従来の教育 → (     )
      → (     )
      → OER → (          )
           → MOOCs
           → (          )

といったように、教育イノベーションの一つとしてMOOCsを捉えるべきではないのではないでしょうか。


その見方を支えそうなものとしてOERについて言及すると、
OERの主要な動きは、先に述べたアメリカ発の例に留まらず、下の例のように全世界に広がっています。

Japan OpenCourseWare(日本)OER Africa(アフリカ)OpenLearn(イギリス)

これに対して、MOOCsはどうでしょうか。主要なCoursera, edX, Udacityはどれもアメリカ発のものだと思います(他にイギリス発のものもありますが、そこまでまだ知られていないと思います)。
実際、アジアの教育者たちはMOOCsに対して「様子見」をしている人が多いようですし、有名なMOOCsの一つであるedXで提供されたMITのコースに登録した人の内訳として、アメリカ、インド、イギリスがトップ3を占め、中国からは予想に反してわずかしか登録していなかったという報告もあります。

このような点について私が考えたのは、おそらくMOOCsが、アメリカのように大学に通うコストが高いような背景のある国にまさにマッチしているものだからこそ、これまでメディアも大きく取り上げ、教育を変えるように確信されていたのでは、ということです(アメリカ中心の視野の狭さ?それに追従してしまいかけている全世界の注目?)。

でも実際は初期MOOCsはそこまで騒ぐほどでなかった、という感じ。
世界を驚かせる動きであったのは確かですが、全世界を巻き込む教育イノベーションになるにはまだ早かった。アメリカの有名大学がこぞって参加したこともあり、全世界の注目を集めている影響で、MOOCsに期待がかけられていた面が大きいのでしょう。


しかし、私はオープンエデュケーションを推進したい人ですので、このような失敗から学び、より効率的に学習ができ、全世界に対応する新しい教育の形態が生まれるべきだと思っています。MOOCsは終わったみたいな書き方をしましたが、冒頭部分で紹介した記事のように、MOOCsから得られた新しいものを活かしていく、もしくはMOOCsをもっと柔軟性のあるものにする方向となれば、現在ある問題を克服していけるはずだと思っていますし、私もそのような部分の改善及び推進に生涯を通じて尽力していく所存です。

MOOCsは学びの最終形態ではない???①



MOOCsは失敗に終わるのか。。。?




最近結構目にすることが多くなってきたMOOCs(Massive Open Online Courses)の失敗や、いわゆるMOOCsの次に来るものに関する意見。
例えば以下のものなどがありました(英語)。

MOOCs May Not So Be Disruptive After All (8/8)


Envisioning a 'Post-MOOC' Era (8/13)


Why Big Data, Not MOOCs, Will Revolutionize Education (8/15)



ちなみに、日本ではCoursera, edX, Udacityなどの主要MOOCsの動きを受けて
「教育の全てが変わってしまう!」というような論調のものがまだまだ多いように思います。例えば次のような記事。タイトルがすげえ。

MOOC革命で日本の大学は半数が消滅する! 高等教育のオンライン化がもたらす「衝撃の未来」(上) (7/17)

オンライン化が、”日本の学歴”を破壊する 高等教育のオンライン化がもたらす「衝撃の未来」(下) (7/24)

WIRED.jp では少しMOOCsの批判について触れられていますね。Quipper本間さんの記事なのでもちろんといったところでしょうか。

大規模オンライン講義「MOOC」は、世界中の若者に就職のチャンスをつくれるか (8/22)

さて、日本ではあまり多く見ないような、上記のアメリカの「MOOCs失敗、次は、、、?」の議論。MOOCsは学びの最終形態ではないとタイトルに記しましたが、このタイトルは極めてアメリカ的です。というのも、MOOCsはメディア等によって騒がれていますが、それのみが次世代の教育になるのではなく、以前からある教育の新しい動きの一つの枝分かれにすぎない、という見方もあると感じているからです。

少々長い話になるかと思うので、今回は前半部分のみを。





オープン教育リソース(OER)から出てきたMOOCs


そもそもMOOCsというのは、Open Educational Resources (OER:オープン教育リソース)という、MITのオープンコースウェアに代表されるような教材をオープンにする動きから出てきたものです。
MOOCsがここ1、2年の動きなのに対して、OERは2001年あたりから動きとして世界に広まっています。

OERは、OECDによれば
「教員、生徒、自主学習らが授業、学習、研究などの目的で自由に利用・再利用できる、公開されたデジタル教材」という定義ですが、砕いて言えば
「インターネット上に転がっている、自由に利用できる様々な種類の教材(ビデオ、シラバス、課題、テストなどなど)」といったところでしょうか。
OERは数えられないほど沢山存在しますが、授業毎、モジュール毎に整理されたりしていて、学習者が自分に必要なものを自由に選んで利用できるようになっています。例としては、次の二つが特に有名だと思います。

MIT OpenCourseWare - MITの講義の資料がほとんど詰まっている。OERの動きの火付け役。

Connexions - ライス大学で始まったOER。「レンズ」と呼ばれるユニークな質管理システムによって教材の質が保たれています。


学習者は、このようなオープン教材に自由にアクセスができて(登録、料金等一切なし)、自由に自らのレベルに合ったものを選び、学習することが出来ます。

OERとMOOCsは全く違うだろう!という意見もあると思いますが(OERは学習者の必要、興味に応じて教材の種類やメディアの種類、講義ビデオの有無などを学習者自ら選択することが可能なのに対して、MOOCsは、授業を提供する教師による伝統的な講義形式を貫いている、受講者同士でディスカッションできる、などなど違いが沢山ある)、理念としては同じもの(教育格差の是正、「知」へのアクセス拡大等※)を共有しています。

MOOCsは突然出現した画期的なものに見えますが、
実は以前からあったOERの理念にのっとっているわけです。




以上、ここまでで前半は一先ず終わりますが、
今回の記事では

①アメリカを中心に、MOOCsの失敗等に関する「ポストMOOCs」の議論がポツポツと結構出始めていること。

②MOOCsはもともと、Open Educational Resourcesという教材をオープンに公開する動きから発展したものだということ。

の二点を整理しました。

次回の記事では、この「ポストMOOCs」議論に対して自分がおかしいんじゃないかと思ったところを述べてみたいと思います。



※ちなみに、オープンエデュケーションの概観については、オープンエデュケーションに大変お詳しい北海道大学の重田先生のスライドが非常にわかりやすいので是非ご覧下さい。私も一部参考にさせて頂きました。







Sunday, June 9, 2013

GOEN Conference に参加しました

6月1日に京都で開かれたこちらのGOEN (Global Open Education Network) Conferenceに招待を頂き、参加してきました!

goen


リンクをご覧頂ければわかりますが、梅田さん、飯吉先生をはじめ、manaveeの花房さん、TFJの松田さん、JOCWの福原先生など、豪華たるプレゼンターの方々のお話を伺うことが出来ました。
各プレゼンについてはここでは取り上げませんが(詳しくはTwitter #goen2013)、全体を通して感じたこと、このイベントに参加して感じたことを2つ記しておきたいと思います。

1オープンエデュケーションを取り巻く関係者の多様化


まずびっくりしたのが、こちらのイベント、学生を多く含む20代の参加者の方が多かったということです。
私がオープンエデュケーションに興味をもったのがおよそ1年半ほど前。この頃はなかなか同じように関心をもつ学生を探すのが大変だったことを覚えています。そのため主に大学の先生方、企業の方々の中で興味をもっておられる方と仲良くさせて頂いていました。

しかし、今回のイベントでも感じたのは、学生の中で興味を抱く方が増えてきているということです。プレゼンターの中にも学生の方が何人かいることは、それを特に象徴しているのではないでしょうか。
飯吉先生はGOEN Conferenceを、多様なAction Takerの決起集会と呼んでらっしゃいましたが、まさにその通りで、オープンエデュケーションを取り巻く関係者が多様化(学生、教員、企業、起業家、政府関係者、NPOなどなど)していて、それらの人が一堂に会した素晴らしい時間でした。
これはオープンエデュケーションが日本でも静かに認知が広まりつつあることを示していますし、私のような若い世代にとっては、今後日本でオープンエデュケーションを盛り上げていくための仲間になります。
今回も学生の方何人かとお話しましたが、皆さん深い知見をもたれている方ばかりで、話すのがとても楽しかったです。

2オープンエデュケーションの動きの中での自分の位置づけ


私自身のことになりますが、上に示した多様な関係者の中で、自分はどのようにオープンエデュケーションに関わりたいのだろうか、関わっていくべきなのだろうかと考えていました。
そこで行き着いたのは、私はこれまでの知識や経験をさらに高め、オープンエデュケーションを学問的、そして実践的な両面から捉えられる人になりたいということです。
ビジネスとして動かしていく人や、大学人として動かしていく人、学生として動かしていく人、多様な関わり方がありますが、私は今後さらに関連分野を学び、様々な経験を積み、それらをもってオープンエデュケーションをミクロ及びマクロなアプローチで貢献したいと思っています。具体的にはまだわかりませんが、どこか組織に属してミクロな実践を改善していく取り組み方も面白いでしょうし、専門家たちと知見を深めるのも面白いでしょう。日本のオープンエデュケーションは日本独自のものを目指すべきだと思いますが、そこに海外の知見を参考にすることは大いにできるので、そういう場面でも貢献できればと思います。
最近はオープンエデュケーションに興味のある方々とお話する機会が多く、そのような方々の関わり方、視点、貢献のカタチを俯瞰し、自分にしかできない貢献の仕方、自分だからこそできる貢献の仕方を探ってきましたが、ようやく見えてきた気がします。


せっかく色々な素晴らしい方々と仲良くして頂いているのですから、今後自らがオープンエデュケーションの促進を進めるということをもって恩返ししていきたいと考えています。


そしてもう一つ思うのが、オープンエデュケーションに興味をもち、素晴らしいものだと感じているからこそ、懐疑的な見解をもつことが重要だということです。
こちらの記事→ オープンエデュケーションとTechnological Determinism でも記したように、何かアイデアを推し進めるには賛否両論を取り入れ考えることが必要です。例えば社会企業のイベントなどには社会企業を「いいもの」と捉えている人が多く集まるのではないでしょうか。しかしそこにはきっと反対する人たちの意見が必要です。私はオープンエデュケーションの分野において、その両者の意見を上手く自分の中で冷静に、かつアツくコントロールできる人になっていきたいです。

促進することと懐疑すること、一見相反することのように思えますが、前者を行うための後者と捉えれば、その重要性は見えてくるのではないでしょうか。



Thursday, February 28, 2013

Open Education and Cultural Imperialism (オープンエデュケーションと文化帝国主義?)


*English follows Japanese


先日ビックリしたこちらのニュース↓


誰でも無料で履修 東大、オンライン講座を9月開講


東京大学がアメリカの代表的なMassive Open Online Courses (MOOCs)プラットフォームであるCourseraに日本で初めて参加することを発表しました。

タイミングがばっちりだった先日のワークショップでも、少しお話が聞けてよかったです。

この動きに関連して、すこし考えてみたのは、「オープンエデュケーションと文化帝国主義」 についてです。
 文化帝国主義 (Cultural Imperialism) という言葉はしばしば非難的に用いられますが、私が用いている範囲においては、一国の文化がその他の国の文化に侵食していくといった簡単な意味で捉えて頂ければいいかと思います。


偶然見つけた、Hong Kong Shue Yan Universityという大学のAssociate Academic Vice PresidentであるAndrea Hope (2005) の以下のような文を見たのがこれを考えたキッカケです。

"Cultural imperialism as exemplified by the use of English rather than the national language; a standardized curriculum rather than a culturally embedded syllabus; and norms of degree architecture rather than a local model."

HopeはこれをDisadvantages of Transnational Educationの一つとして記しています。
要するに、例えばアフリカの子供がアメリカからの遠隔教育を受ける際に、アフリカの言語を用いずに英語で教育したり、アフリカの教育文化の中で使われてきたシラバスのようなものを使わずアメリカのものを適用したり、学位などのシステムもアメリカのものが入ってくる、といったところでしょうか(degree architectureの訳があまりわからず、不確かですが。。。><)。


この文は8年ほど前に書かれたものですが、私はこの文化帝国主義の観点から
現在注目されているオープンエデュケーションを捉えてみると面白いのではないかと思いました。

つまり、MOOCsに代表的なオープンエデュケーションにおいて、仮に、主にアメリカを発信源とするアメリカの教育文化がその他世界へ普及・侵食している、と捉えてみると面白い考察ができるのでは、ということです。

私もいくつかの授業を受講していますが、例えばCourseraのコースは全て英語で提供されていて、シラバスなどは、おそらくアメリカの教育を基に作られているはずです。

しかしここで、MOOCsをそのように捉える際に、興味深い点が二点あります。

①10年ほど前と比べ、英語がグローバルな言語だという感覚が強くなっているということ
②東大など世界各国の国がMOOCsに参加し始めていること


①についてですが、
近年、楽天などが社内公用語を英語にしたことなどに見られるように、世界全体で国際的な取引や移動が増えていると思います。そうした中で英語は世界中どこでも使われるようになってきています。
これがHopeの文が書かれた8年ほど前とはだいぶ状況が違うのではないかということです。

もはや英語で教育を提供することは、「欧米文化」の伝達などではなく、当たり前のこととして捉えるべきでしょう。
日本にいるとその感覚を掴みづらいかもしれませんが、お隣の韓国やその他アジア地域の事情を考えれば納得できるかと思います。

なので、英語を文化帝国主義の表れとして論ずるのは不適切だと感じました。


②については、
この記事の冒頭にも書きましたが、東大を含めアジア、イギリスなどアメリカ以外の地域から
CourseraなどのMOOCsのプラットフォームを使って、教育を提供する大学が増えてきたということです。
このプラットフォームというのがミソで、Courseraはアメリカの大学のみを受け入れるのではなく、世界各国の教育機関の講義を提供するプラットフォームとして機能しています。

すなわち、東大などアメリカ以外の国が自国で行ってきた教育をMOOCsを通じて世界へ発信できるので(もちろんMOOCs用に構成し直すでしょうが)、その意味では「文化帝国主義」の「文化」が一国のものではなく、バラバラ、もしくは複数の文化のミックス状態になっていると思います。

ここで「複数」といったのは、例えば東大がCoursera上で宇宙物理学の授業を開講する際、シラバスは日本の大学で主に使われるようなものにするでしょうか、それともアメリカのものに近いものにするでしょうか。もし後者なら、アメリカの教育プラットフォームで、アメリカ型のシラバス形式で、日本の大学が授業を行う、といった、面白いことになります。
もはや文化といって何を指すのか、ということがあいまいになり、ただ一国の文化が他の国や文化に一方向に伝わるようなものではありませんね。

以前はdisadvantageとして懸念されていた教育における文化帝国主義が、今は複雑なものになり、もはや意味をなしているのかさえわからなくなっています。


今まさに、MOOCsを通して、文化帝国主義という概念自体がもう時代遅れだということを私たちが思い知らされているのかもしれません。


Monday, February 25, 2013

オープンエデュケーションに関するワークショップに参加してきました


2月24日に、以前からお世話になっている東京大学の重田先生らが主催された
オープンエデュケーション・ワークショップ「オープンな教育を創って学ぼう!」 に参加してきました!


どういった内容のものだったかというと、その概要がこちら↓(重田先生のブログから引用)

近年、欧米諸国を中心にオープンエデュケーションと呼ばれる活動が活発になっています。大学をはじめとする様々な教育機関や個人が、インターネット上に教 育用途に自由に使えるオープン教材(OER:Open Educational Resources)を公開し、大学はオープンコースウェアをはじめとする大学教育に使われる教材を無償公開しています。最近では MOOCs(Massive Open Online Courses)と呼ばれる、教育ベンチャー企業や大学が百万人規模でオンライン教育を行う取り組みが急速に広がっています。

このようなオープンエデュケーションの活動とは、いったいどのようなものなのでしょうか。なぜ、ここまで活動が急激に広がってきたのでしょうか。この活動 は、誰が、どのような方法で、どのような支えを受けて進められているのでしょうか。オープンエデュケーションは、既存の教育を変えうるものなのでしょう か。「オープンエデュケーション・ワークショップ」では、このようなオープンエデュケーションに関する問いや疑問、可能性と課題について、主催者と参加者 が共に考えます。

「オープンエデュケーション・ワークショップ」は二部構成となっています。

第一部では、オープンエデュケーションに関する「基礎知識」を整理します。オープンエデュケーションの活動について、さまざまな事例をもとに質疑応答を交 えながら解説します。ここではまず、オープンエデュケーションとは何なのか、未来の教育に対してどのような可能性や課題を持っているのかについて、参加者 の方々の知識を整理して頂きます。

第二部では、オープンエデュケーションを「創ることで学ぶ」活動を行います。「デザイン思考」の方法をベースにしたグループワークによって、オープンエ デュケーションを利用する学習者の探究ストーリーをつくり、様々なサービスを考案しながら学習者の学びの環境をデザインします。オープンエデュケーション の活動を「提供する側」「利用する側」の両面から考え、実際の学習シーンにあてはめてみることで、オープンエデュケーションの持つ可能性や限界について、 理解をより深めて頂きます。

 


要するに、既に知っている人も、知らない人も、近年注目を集めている「オープンエデュケーション」について重田先生のお話を聞きながら整理し、その後、その知識を使って楽しいアクティビティをしよう!という構成ですね。


実際に行くと、参加者の方々は大学関係者から企業の方々、大学院生など年齢層も様々でした。学部生は私を含め2、3人だったような気がします(もっと学部生も増えてほしい。。。)

第一部では重田先生がわかりやすくオープンエデュケーションの「今」を解説してくださいました。
途中で使われていたビデオがとても印象的でした。 それがコレ↓


つまり、新しいテクノロジーによって、教育のかたちやありかたが将来大きく変わることが予想されるわけです。(トントン拍子でいくかどうかは別の話ですが。。。)
私にとっては、知識の整理のような話でしたが、全く知らない参加者の方にとっては色々驚く内容が含まれたお話だったのではないでしょうか。

重田先生のお話のまとめもありますのでぜひ。
スライドも共有してくださっています。

やっぱり私が先生のお話の中で気になったのが、「ニーズ」という背景が後押ししてオープンエデュケーションが動いているということですね。

例えば、
「2020年までに67%の職業で学部卒の経歴が必要」というお話がありました。
アメリカの大学では「non-traditionalな学生」 、つまり働きながら勉強をしている、などの「普通の」学生とは異なるタイプの学生が全体の75%を占めるらしいです。
(ところで、学部卒以上じゃなきゃ出来ない職業って、なんでしょうか。。。)
そして彼らはドロップアウト(退学)率も高いので、そこに、はっきりとした「勉強を続けたいのに大学に通えない」というニーズがあるわけです。
ここでインターネットを介したオープンエデュケーションが使われうるということですね。

また、途上国や新興国では学生の数が将来多くなり、大学自体の数が足りなくなるという事態もおこっています。

このような「ニーズ」があるような背景の国では、なるほどオープンエデュケーションも盛り上がるわけです。

そんな中、日本では、どうでしょうか。
大学全入時代と言われ、大学に入学しても単位をとることが目的になってしまい、卒業は単位さえとればできるような状態ともいえます。
また、少子化と言われているのにも関わらず、大学の数はどんどん増えてきています。

そこで、無料で大学の講義を受けることに対する「ニーズ」はあるのでしょうか。
上に書いた海外におけるニーズに対して、日本でも確かに、地方に留まり、第一志望の学校に通うことのできない学生や、中退者は予想以上に多いです。
でもそれらの実状が可視化されていないということもあって、社会的に彼らをサポートする動きは少ないですよね。つまり、「ニーズ」は浮かび上がっていない。

もっとも、その一方で、「この授業を受ける必要がある/受けたい」 というような思いが今の日本の学生の状況からは生まれていないのではという、「学びに対する意欲」の問題もあると思いますが。

MITのOCWは多くの学生が利用しているそうですが、日本の大学のOCWは果たしてどのくらい学生に利用されているのか。。。 う~ん。


もちろんオープンエデュケーションの利用方法や目的は様々ですが、はっきりとした「ニーズ」はこれだ!と言えるようなものがまだ見当たらない(?)日本においては、まだまだ今後試行錯誤が必要といえるのではないでしょうか。




さて
第二部では、関学の武田先生と阪大の森先生主導でグループワークを行いました。
グループごとに仮想の人物「ペルソナ」を創り、その人物がオープンエデュケーションとどう関わっていくかを考えるアクティビティです。
私のグループは学生が一人だったということもあり、私のストーリーをもとにした「ペルソナ」ができました(笑)
このような体験型の活動を通してオープンエデュケーションを捉えるのは新鮮で、とても楽しめました。



懇親会には、京都大学の飯吉先生の授業を受講して興味をもち、はるばるバスで来たという京大生もいて、私自身刺激を受けたと同時に、同じ世代の学生にももっと広めていけたらいいなと改めて感じました。



Sunday, November 4, 2012

オープンエデュケーションとTechnological Determinism


11月7日号のNewsweek日本版、特集としてオンライン大学を扱っているようですね。


特集:未来の大学

最近このようにして日本でもじわじわと認知されてきているオープンエデュケーションの概念ですが、
 この動きの広がりと定着に関連して、最近一部読んだ本の内容を通してすこし感じたことがあるので、書き留めておきたいと思います。


その本とは、これです↓
America Calling: A Social History of the Telephone to 1940

日本語版はこちらですね↓
電話するアメリカ―テレフォンネットワークの社会史

現在カリフォルニア州立大学バークレイ 校の社会学の教授をしているClaude Fischerという社会学者の本です。
発売は1994年なので、今から約20年ほど前の本になります。
彼はこの本の中で、電話というテクノロジーが社会に浸透していくプロセスを分析しているのですが、
大きくわけて以下のアプローチを紹介しています。

①Technological Determinism

②Social Constructivism

①は、いわゆる「テクノロジーが社会変化を決定付ける」ような意味合いだと捉えられると思います。
その中ではさらに細かい分類があるのですが、その一つであるImpact Analysisの部分で
Fischerは「ビリヤード・モデル」を紹介してこれを詳しく説明しています。

つまり、テクノロジーは外部から入ってきて、ビリヤードのように、社会のいろんな面にインパクトを与え、さらにそのそれぞれがまた別の部分にインパクトを与え…と、次々と変化が起こっていくというわけです。

このプロセスではEconomic Rationality、すなわち経済的合理性が重要視され、そのテクノロジーを使うことで経済的に合理的な結果となると判断されればそのテクノロジーが社会に受け入れられることとなります。


そしてそれに対して②は、トップダウンでない、「社会がテクノロジーや、その使われ方を決定する」というアプローチです。
Fischerはこちらの考えを支持しており、テクノロジーは社会の様々な制約や人々の好み、人間関係などによって社会に適用されるということを主張します。
その使われ方は経済的に合理的かどうかに関わらず、社会の中で決定付けられます。


このような二つの異なったテクノロジーの捉え方は、現在のオープンエデュケーションの動きにまさに合致しているのではないでしょうか。


Courseraのco-founderであるDaphne Koller教授のTED Talkを見るとわかりやすいと思いますが、
最近のトップダウン的なオープンエデュケーションの取り組みにはどこか①のようなアプローチに似ている部分があると感じています。(まあTEDはそのように喋ることになっていますが)

TED Talk by Daphne Koller↓
Daphne Koller: What we're learning from online education


つまり、「無料で、世界のどこにいても受講することができる質の高い講義を選択することは、アメリカの高等教育にかかる費用を見ても明らかなように、経済的に合理的なことであり、世界の教育を変えてしまうだろう」、という主張は決定論的な変化を多少強調しすぎているのではないでしょうかということです。

「津波」という言葉を用いてアメリカの各紙はその変化の波を強調していますが、ビリヤードのようには上手くとんとん拍子でいくものでもありません。


例えば先日、Courseraで多数のplagiarismの不正があったことが発覚しました。
Dozens of Plagiarism Incidents Are Reported in Coursera's Free Online Courses 

plagiatismは退学になるかどうかのレベルの重大な不正ですが、
今回のオンラインコースでは、Peer Reviewの採点方法をとった結果発覚したらしいです。
参加者によれば、平気で引用なしにウェブ上のものを自分のものとしてペーパーに書いているようなものが非常にたくさんあり、とても読むに耐えないものもあったようです。
参加者は他の参加者のペーパーを読み、コメントと採点をするらしいですが、plagiarismをしているペーパーにコメントはできない、内容についてコメントや採点をするようなものではない、と参加者のブログに書かれている のが印象的でした。

さらには、誰でも参加可能なため、ペーパーの英語がほとんど読めないものも多数提出されており、参加者のレベルの違いにも大きな差があり、collaborative workを強制するにも無理があるように思いました。


「質の高い講義が誰でも受けれる」という言葉は、個人的な学びの際には非常にありがたい言葉なのですが、果たしてそれがcollaborative workになった際にとてもいいものなのかは疑問が残ります。
構成主義的な学習をオンラインコースで大人数相手に行うのはまだまだ難しそうです。(KollerはTEDの中でpeer reviewの効果を述べていますが…)


よってやはり、もっとこれからミクロレベルの調査が必要になってくるのかと感じているところです。
無料だからといって、経済的だからといって今までの教育と取り替るとは限りません。
鍵はおそらく、学習者のニーズや、社会的なコンテクストにもかかわってくるのでしょう。
アメリカのように高等教育にかかる費用が高い場所ではある程度上手くいったとしても、世界全体の動きになるかどうかはわかりませんよね。



Fischerを読んで、改めてオープンエデュケーションを違う側面から考えることができたのはよかったと感じます。
当たり前といえば当たり前ですが、こうやって自分が知らなかったアプローチ方法を新しい部分に当てはめるのはいい経験だと思っています。