MOOCsは失敗に終わるのか。。。?
最近結構目にすることが多くなってきたMOOCs(Massive Open Online Courses)の失敗や、いわゆるMOOCsの次に来るものに関する意見。
例えば以下のものなどがありました(英語)。
MOOCs May Not So Be Disruptive After All (8/8)
Envisioning a 'Post-MOOC' Era (8/13)
Why Big Data, Not MOOCs, Will Revolutionize Education (8/15)
ちなみに、日本ではCoursera, edX, Udacityなどの主要MOOCsの動きを受けて
「教育の全てが変わってしまう!」というような論調のものがまだまだ多いように思います。例えば次のような記事。タイトルがすげえ。
MOOC革命で日本の大学は半数が消滅する! 高等教育のオンライン化がもたらす「衝撃の未来」(上) (7/17)
オンライン化が、”日本の学歴”を破壊する 高等教育のオンライン化がもたらす「衝撃の未来」(下) (7/24)
WIRED.jp では少しMOOCsの批判について触れられていますね。Quipper本間さんの記事なのでもちろんといったところでしょうか。
大規模オンライン講義「MOOC」は、世界中の若者に就職のチャンスをつくれるか (8/22)
さて、日本ではあまり多く見ないような、上記のアメリカの「MOOCs失敗、次は、、、?」の議論。MOOCsは学びの最終形態ではないとタイトルに記しましたが、このタイトルは極めてアメリカ的です。というのも、MOOCsはメディア等によって騒がれていますが、それのみが次世代の教育になるのではなく、以前からある教育の新しい動きの一つの枝分かれにすぎない、という見方もあると感じているからです。
少々長い話になるかと思うので、今回は前半部分のみを。
オープン教育リソース(OER)から出てきたMOOCs
MOOCsがここ1、2年の動きなのに対して、OERは2001年あたりから動きとして世界に広まっています。
OERは、OECDによれば
「教員、生徒、自主学習らが授業、学習、研究などの目的で自由に利用・再利用できる、公開されたデジタル教材」という定義ですが、砕いて言えば
「インターネット上に転がっている、自由に利用できる様々な種類の教材(ビデオ、シラバス、課題、テストなどなど)」といったところでしょうか。
OERは数えられないほど沢山存在しますが、授業毎、モジュール毎に整理されたりしていて、学習者が自分に必要なものを自由に選んで利用できるようになっています。例としては、次の二つが特に有名だと思います。
MIT OpenCourseWare - MITの講義の資料がほとんど詰まっている。OERの動きの火付け役。
Connexions - ライス大学で始まったOER。「レンズ」と呼ばれるユニークな質管理システムによって教材の質が保たれています。
学習者は、このようなオープン教材に自由にアクセスができて(登録、料金等一切なし)、自由に自らのレベルに合ったものを選び、学習することが出来ます。
OERとMOOCsは全く違うだろう!という意見もあると思いますが(OERは学習者の必要、興味に応じて教材の種類やメディアの種類、講義ビデオの有無などを学習者自ら選択することが可能なのに対して、MOOCsは、授業を提供する教師による伝統的な講義形式を貫いている、受講者同士でディスカッションできる、などなど違いが沢山ある)、理念としては同じもの(教育格差の是正、「知」へのアクセス拡大等※)を共有しています。
MOOCsは突然出現した画期的なものに見えますが、
実は以前からあったOERの理念にのっとっているわけです。
以上、ここまでで前半は一先ず終わりますが、
今回の記事では
今回の記事では
①アメリカを中心に、MOOCsの失敗等に関する「ポストMOOCs」の議論がポツポツと結構出始めていること。
②MOOCsはもともと、Open Educational Resourcesという教材をオープンに公開する動きから発展したものだということ。
の二点を整理しました。
次回の記事では、この「ポストMOOCs」議論に対して自分がおかしいんじゃないかと思ったところを述べてみたいと思います。
※ちなみに、オープンエデュケーションの概観については、オープンエデュケーションに大変お詳しい北海道大学の重田先生のスライドが非常にわかりやすいので是非ご覧下さい。私も一部参考にさせて頂きました。
No comments:
Post a Comment